「歌劇場の魔物に出会いました」より
魔物に殺された人間は、例外なく亡霊になる。
- 通常の輪廻の輪に戻るまで猶予を必要とする亡霊達は、魔物に殺されたという魂のひびを修復するまでの百年あまりの期間、“あわい”と呼ばれる特別な死者の国で暮らしている。
- そんな亡霊達がこちら側に這い出してくるのが、復活祭や収穫祭などの特殊な祝祭の期間。
- 死者の日と呼ばれるそれらの日に至っては、ほとんど生者と変わらぬ質感でうろうろするので、大変に紛らわしい。
「あわい」はなんとも日本的な言葉のようです。
「あわい」に似ている言葉に「あいだ(間)」がありますが、このふたつは少し違います。「あいだ」の語源は「空き処(ど)」で、AとBに挟まれた空間を言います。それに対して、「あわい」は「合う」を語源とし、AとBの重なるところ、交わった空間を言います。
日本は「あわい」にあふれています。
たとえば建築における「あわい」は縁側です。日本の家屋は三つの部分から成っています。ひとつは「うち」です。「うち(内)」は身内だけが入ることができる閉鎖空間です。それに対してよその人のための開かれた空間が「そと(外)」。そして、「うち」でもあり、「そと」でもある空間を「なか(中)」と言いました。仲間ならば入れる「なか」です。縁側はこの「なか」の空間であり、「うち」と「そと」との「あわい」の空間です。
夏の縁側で寝っ転がっていると友だちが「遊ぼ」と呼びに来るし、小春日和の縁側ではおばあちゃんが編み物をしている。その横では猫があくびをしていたりもする。縁側は建築空間であるだけでなく情緒をも宿す「あわい」の空間なのです。
和歌における「あわい」は掛詞ですし、茶室への石組も「あわい」で組まれる。音楽では雅楽の笙(しよう)の手移りなども「あわい」だし、日本文化には「あわい」があふれていて、書いていくと切りがない。(日本にあふれている、「あわい」とは、より)
くすまもの「あわい」は多分上記のような意味合いのふたつともが合わさった空間なのかな?と思っています。
ものとものの間だけれど、もしくはすぐそばにあるけれど、ときどき交わるけれど、という曖昧な空間。
くすまもファンのことを「あわいの民」と表現するみたいなのですが(参加した時にはもう普通にそういう呼び名でした)、そのファンの方々も、さまざまな「あわい」に存在してる雰囲気で、一致団結!みたいな強さは時々感じますけれど、普段は「各々のあわい」に在籍。とても健全だなって思っています。
そして死後はウィーム移住希望者が多いです(私もですが)。
魔物に殺されると100年死者の国の「あわい」に暮らすのだそうな。100年?
この現世もなにがしかの「あわい」の世なのかもしれないですね。