見聞の魔物であるゼノーシュから手厚い情報が入り、信仰の魔物の居場所が特定されたのは、ネアの初参戦より二日後のことだった。
信仰の魔物 レイラ
- 耳下で揃えた真っ直ぐな白みがかった栗色の髪に鶯色の瞳。
- 甘さの薄い凛とした美貌の男装の麗人。
- つるぺた。
- 真っ青なローブに錫杖と聖典を持つ
- 聖女と呼ばれるのは鹿角の魔物だけだが、レイラも充分にその言葉を体現出来る静謐な美貌
- 奉納品を欲する魔物の一人
- 毎年新年に目録が出されるその中には、香木や葡萄酒に代わり、近年は女性らしいドレスの要求も多々含まれる
戻りたくないとゴネる信仰の魔物
「あんなところへなど戻れるものか。アルテアの治める国で、信仰としての務めを果たせだと?冗談ではない」
「個人的事情と仕事は別のものです。さっと終わらせてしまえば、こんな風に責められることもなくなりますよ」
「そなた達の思い通りになどなるものか!」
「困った魔物さんですね…」
「ここ数日、この国の信仰の希薄さと言ったらない。このような土地で祝祭など出来るとでも?」
「信仰を希薄にしたのは、当日に脱走されたことで信頼を欠いてしまったからではないでしょうか」
「アルテアをヴェルクレアの統括から外せば、考えてやらんでもないぞ」
「それは我々人間には関わりようのない決定です。アルテアさんは第三席だそうですので、上のお二人にご相談してみては如何でしょうか」
「私にそのような申し出が出来る筈がないだろう?!」
「では諦めては如何でしょうか………」
アルテアさん排除したいけど高位なのでまわりにどうにかしろとゴネる信仰の魔物。
そこでネアは、レイラの足元に謎の灰の山が出来ていることに気付いた。
このような灰は前にも見たことがある。
妖精が死んだ後に残るものだ。
レイラが握っているのはムグリスだ。
ムグリス・・・。
「潰すから良いのさ。手慰みだ」
ムグリスーーーーッ!!!
一つ頷いたネアはつかつかと歩み寄り、指輪のある方の手で、ムグリスを掴んだレイラの手をばしりと叩いた。
「こういうことはいけません。この子は巣に戻してあげましょう」
「お前のような、特に美しくもない女にかける慈悲などないが、平伏しその妖精を差し出せば許してやろう」
余程不貞腐れているのだろう。
関係のない部分まで攻撃されて、ネアは微笑みを深めた。
「……お言葉ですが、レイラさんとてつるぺたです。私の方が勝っておりますが?」
「だだだ黙れっ!!黙れ、人間風情が!!!」
冷静に流せばいいのに、咄嗟にレイラは、自分の胸部を両手で覆ってしまった。
この一言で反応するくらいだから、余程気にしているのだろう。
実はこの弱点は、ダリルから教えられた交渉のカードの一つだった。
邪悪な書架妖精ダリルさん・・・。
「つるぺたな信仰さんに、このもふもふの芳醇なムグリスを潰す資格はありません。もしや、膨らみへの嫉妬ですか?」
「黙れと言っただろう!!!」
「狩りならわかります。狩りはとても残酷なもの。また、駆除や戦いのときも同じように世界は残酷です。しかし、ただの暇潰しの殺戮は、愚かなものではないでしょうか」
「私は魔物だ。お前とは違う」
「けれど、殺戮を気質とする魔物でないのを知っております。あなたが殺戮を主とする魔物さんであれば、私は止めません。でも違うでしょう?だからこそ、私はこの子を助けたんですよ」
「黙れ鼠色!」
「まぁ!私は、現在の自分の配色は気に入っているんですよ?」
レイラとネアちゃんの攻防は大人と小型犬。
ネアは大人なので、このような子供っぽい暴言に傷付くことはない。
だが、大人としての腹黒さを如何なく発揮して、信仰の魔物を強引に連れ帰りたくなった。
と言うか、説得役を任されたものの、若干面倒くさくなってきたのだ。
「………わかりました。今の暴言に、私はたいそう傷付きましたので、ディノに告げ口をします」
「…………なっ?!」
「そして、ダリルさんにも言いつけます」
「……………ダリルに」
「そして、今後信仰の魔物さんに奉納されるドレスは、胸元を強調する仕立てのものにするよう、教会の方達にお願いしておきます」
「…………胸元を強調」
このやりとりはなかなか効く・・・。
射殺しそうな鋭い眼差しを向けたまま肩を震わせる様は、ダリルが、とても苛めたくなる逸材と称賛するにあたるだけの素質を、確かに持っていた。
とても苛めたくなる逸材と称賛・・・。不憫な信仰の魔物・・・。
「私は、平和主義者ですので、どうかそんな残酷なことをさせないで下さい。このままだと、面倒臭さに負けて、ふらっと先程口にしたことを実行してしまいかねません」
「ものすごい、安易に実行しようとしているだろう……」
「そんなことはありませんよ。せいぜい後十五秒くらいまで待てます」
「十五秒………」
15秒・・・。
「ネア、大丈夫かい?」
「難しそうですね。とても頑なになっていらっしゃるので、やはりダリルさんのように近しい方を呼ばないと無理そうです。もしくは、ヒルドさんに力ずくで引っ張っていって貰いましょうか?」
「私が向こうに入れておいてあげようか?」
さも造作のないことのように言われたので、ネアはそれでいいかなと思い始めていた。
「では、ディノ…」
「………………戻る」
背後から地を這うような低い声が聞こえた。
振り返ったネアの目に、ステンドグラスの鮮やかな色彩を背景に、ゆらりと立ち上がったレイラの姿が映る。
とても幻想的な光景に見えるが、職務放棄していた魔物が、嫌々仕事をしに行くだけの構図なのが残念だ。
どうにもこうにも残念な魔物。逃げれば逃げるほど悪い状況が増していってます。
不意に、信仰の魔物の姿が掻き消えた。
「途中で逃げないように、大聖堂に放り込んでおいたから大丈夫だよ」
「最後の最後で、自首出来なかった犯人のようですね……」
「自分で戻らせるより、このくらいの方が立場がわかるんじゃないのかな?」
「世の中は無常ですね。そして、向こう側で受け取り手はいるのでしょうか?」
「アルテアとヒルドがいるそうだから大丈夫だろう」
「…………信仰の魔物さんの、心の平安を願うばかりです」
「ネアを傷付けたんだから、このくらい当然だよ」
好意的ではないアルテアさんとヒルドさんのところに送られるのはかなり避けたい不憫な状況。王様の歌乞いを乏しめるなんて浅慮な魔物です。
今頃彼女はどうしているだろう。
精神的な敵と、命を脅かしかねない敵に挟まれて、イブメリアまで心は無事でいられるだろうか。
精神的な敵と、命に関わる敵。
「ディノ。この子が飛べないようなのですが大丈夫でしょうか?」
「………浮気」
思いがけない言葉に目を瞠って、ネアはディノを見返す。
どんぐりの魔物にすら嫉妬するくらいなので、これは確かに気になるのかもしれない。
「目の前で拾い上げた小さなものなので、助けてあげたいと思います。特別な好意ではなく、人間が広く一般的に持ち合わせている善意の一つですので、深く考えないで下さいね」
「特別ではないんだね?」
「ええ。この子は妖精ですが、拾った子猫の身を案じるようなものですよ」
「………ならいいのかな。それも、自分の立場がわかったみたいだし」
ディノの視線を追えば、手の中のムグリスがぺしゃりと平べったく潰れていた。
しばらくその体勢で小刻みに震えながらみぃみぃ言っていたが、やがて羽を動かすとぶーんと天井に向かって飛んでいってしまう。
「飛べるようになったみたいで安心しました」
「………と言うより、特別扱いじゃないとわかって去ったんだろうね」
目を凝らしてを柳梁天井を見上げれば、梁と天井画の間のレリーフの部分に、鈴なりになっているムグリスの集団が見えた。
集団で集まると巨大な灰色の毛皮の塊のようで少し不気味だ。
やはりこのあいだの「概念 ムグリス」のような鈴なりなのだろうか。
「帰りましょうか?」
「うん。でもその前に、ネア、手を洗おうか」
「………徹底していますね」
魔物が決して譲ろうとしなかったので、ネアは聖堂の祭礼準備室を借りて、氷のような井戸水で手を洗う羽目になってしまった。
とても冷えたので手繋ぎの刑に処すしかあるまい。
ご褒美な刑。
余談ですが、沖縄も本日「梅雨」入りした模様。
お手柔らかに頼みたいです。